かつて横浜・伊勢佐木町や関内の街角に、真っ白な化粧と豪奢な白いレースのドレスを纏って立ち続けた女性、「ハマのメリーさん」。戦後の混乱期から1990年代半ばまで、半世紀にわたり横浜の風景の一部であり続けた彼女の姿は、多くの人々の記憶に強烈なインパクトを残しました。
都市伝説として語られることも多い彼女ですが、その特異な風貌の裏には、激動の昭和を生き抜いた一人の女性としての切ない愛の記憶と、揺るぎない誇りがありました。没後20年余りが経過した現在もなお、映画や舞台、写真集を通じて語り継がれる「ハマのメリーさん」の正体、白塗りに隠された真実、そして知られざる晩年までの軌跡を紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:メリーさんの本名は「西岡雪子(諸説あり)」とされ、戦後は米軍相手の「パンパン(娼婦)」として横浜の激動期を生き抜いた。
- 要点2:象徴的な「白塗り」は老いを隠しつつ、かつて愛した米軍将校を待ち続けるための彼女なりの誇りと美学の象徴だった。
- 要点3:1995年に突如横浜を去った後は故郷の老人ホームで穏やかに余生を過ごし、2005年1月に84歳でこの世を去った。
【生い立ちと経歴】進駐軍の時代から街頭へ|本名と戦後の歩み
ハマのメリーさんと呼ばれた女性の本名は「西岡雪子(にしおか ゆきこ)」と広く知られています。大正末期の1921年頃、岡山県で生まれたとされ、戦前は歌や英語を学ぶなど教養ある令嬢として育ったという証言も残っています。しかし太平洋戦争の敗戦により運命は暗転し、生きていくために進駐軍(米軍)兵士を相手にする娼婦(いわゆる「パンパン」)としての道を歩み始めました。
戦後間もない東京・有楽町や銀座の街頭に立ち、やがて米軍基地を抱える国際港湾都市・横浜へと拠点を移します。英語が堪能で立ち振る舞いが洗練されていた彼女は、街娼の中でもひときわ気品を放ち、当時の高級将校たちから引く手あまたの存在だったと伝えられています。
高度経済成長を経て街並みが様変わりし、かつての仲間たちが街を去っていった後も、彼女だけは横浜の街角に立ち続けました。身寄りもなく、決まった住居を持たずにビルの廊下やエレベーターホールで夜を明かす過酷な路上生活を送りながらも、彼女は決して他人に媚びず、施しを拒み、自らの力で生きる姿勢を崩しませんでした。
【白塗りドレスの真相】なぜ顔を染めたのか?米軍将校との切ない愛
メリーさんを語る上で欠かせないのが、歌舞伎の女形を思わせる顔全体を真っ白に塗った厚化粧と、アイラインを極端に強調した独特のメイク、そして純白のドレススタイルです。なぜ彼女はこれほどまでに異様な装いを貫いたのでしょうか。
その背景には、戦後に出会ったある米軍将校との生涯忘れ得ぬ恋があったとされています。彼から贈られたエメラルドの指輪を肌身離さず身につけ、「彼がいつ横浜に戻ってきても、ひと目で見つけてもらえるように」という一途な思いから、白いドレスを身に纏い続けたと言われています。
また、年齢を重ねるにつれて深まる顔のシワや老いを隠し、現役の表現者・女性としての美貌を維持しようとした結果があの「白塗り」でした。周囲からは奇異の目で見られながらも、それは彼女にとって過酷な現実から自らの尊厳を守り抜くための「仮面」であり、究極のプライドの表れだったのです。
【伊勢佐木町の日常】都市伝説の裏側とシャンソン歌手・元次郎との絆
昭和から平成初期にかけて、伊勢佐木町の松坂屋前や関内駅周辺、馬車道の喫茶店などに頻繁に姿を現したメリーさん。「見ると不幸になる」「触ると呪われる」といった心ない都市伝説が囁かれる一方で、彼女の素顔を知る地元の人々は、その礼儀正しさと誇り高さを証言しています。
メリーさんは行きつけのクリーニング店や喫茶店「マツモト」などを利用する際、必ず手袋越しにお金を支払い、他人に不快感を与えないよう細心の配慮を払っていました。自分専用のティーカップを持参し、丁寧な言葉遣いで店主に挨拶する姿は、まさに往年の貴婦そのものでした。
そんな彼女を温かく支え続けたのが、シャンソン歌手の永登元次郎(ながと げんじろう)氏です。自身もマイノリティとしての苦悩を抱えていた元次郎氏は、メリーさんの孤独と誇りに深く共鳴し、定期的に食事を共にしたり、自身のコンサートに招待するなど、生涯にわたる深い友情を築きました。二人の交流は、横浜という街が抱く寛容さと優しさを象徴するエピソードとして今も語り継がれています。
【失踪と晩年の居場所】1995年、突如消えたメリーさんが迎えた最期
1995年の冬、横浜の街からメリーさんの姿が突如として消えました。長年見慣れた白いドレスの影が見当たらなくなったことで、「亡くなったのではないか」「事件に巻き込まれたのでは」と様々な憶測が飛び交いました。
真相は、高齢と体力の限界を悟ったメリーさんを支援者たちが説得し、生まれ故郷である岡山県内の老人ホームへ引き取られたというものでした。横浜を去る直前、彼女は親しい人々に丁寧な礼状を残し、静かに街をあとにしました。
晩年の施設での暮らしにおいて、彼女は象徴だった白塗りとドレスを脱ぎ捨て、穏やかな「西岡雪子」という一人の女性に戻りました。かつての支援者や元次郎氏が施設を訪れた際、白髪の穏やかな笑顔で出迎えた姿が記録されています。そして2005年1月17日、メリーさんは84歳で静かに息を引き取りました。その最期は、激動の半生とは対照的に、穏やかで安らかなものだったと伝えられています。
【映画『ヨコハマメリー』と舞台】五大路子や森日出夫の写真集が残した記憶
メリーさんがこの世を去った後も、彼女の遺した強烈な残像は多くの表現者たちを刺激し続けています。その代表作が、2006年に公開された中村高寛監督のドキュメンタリー映画『ヨコハマメリー』です。彼女と関わった市井の人々の証言を通じて、横浜の戦後史そのものを浮き彫りにした本作は、国内外で数々の映画賞を受賞し、大きな反響を呼びました。
また、女優の五大路子は、メリーさんをモデルにしたひとり芝居『横浜ローザ』を1996年からライフワークとして上演し続けています。戦後の横浜を生き抜いた女性の魂を演じ継ぐ舞台は、国内外で絶賛を受け、メリーさんの存在を不朽の記憶へと押し上げました。
さらに、写真家の森日出夫が撮影した写真集『PASS ハマのメリーさん』は、白塗りの奥にある彼女の孤独と気高い眼差しを捉えた貴重なドキュメントとして、今もなお多くの人々に鮮烈な印象を与え続けています。
【ハマのメリーさん】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:ハマのメリーさんは現在どうしていますか?生きていますか?
A1:メリーさんは1995年に横浜の路上を去り、故郷の老人ホームへ入居した後、2005年1月17日に84歳で逝去されました。
Q2:なぜ顔を真っ白に塗っていたのですか?
A2:かつて愛した米軍将校に再会した際に見つけてもらうためという理由に加え、年齢による老いを隠し、街頭に立ち続ける現役のプロフェッショナルとしてのプライドを保つためのメイクでした。
Q3:メリーさんは住む家がなかったのですか?
A3:晩年の横浜時代は決まった住居を持たず、ビルの階段や雑居ビルの廊下に椅子を置いて夜を明かすホームレス生活を送っていました。しかし、施しを一切受けず、所持金で飲食や日用品の支払いを自力で行っていました。
まとめ:横浜の激動を駆け抜けた一人の女性の誇り
「ハマのメリーさん」は、単なる都市伝説や風俗史の登場人物ではありません。戦後の過酷な混乱期を自らの足で立ち、どれほど困窮しても他者に媚びず、愛の記憶と誇りを胸に生き抜いた一人の気高き女性でした。
彼女が街頭から姿を消して30年、この世を去って20年以上が経過した現在も、映画や舞台を通じてその生き様が語り継がれるのは、彼女の姿の中に「人間としての根源的な尊厳」と「時代への強烈な批評精神」が宿っていたからにほかなりません。急速に近代化が進む横浜の街の片隅に、かつて確かに存在した純白の貴婦人の物語は、これからも色あせることなく記憶され続けるはずです。 (出典: ハマ の メリー さん(Yahoo!ニュース))